凪都。

なつの観察日記

「死なない蛸」 萩原朔太郎

2023/09/04 17:30~

 

概略

蛸は目覚めたとき誰からも存在を忘れられていた。食べられる物がなくなると彼は自分の足をもいで食った。足がなくなると胴を裏返し内臓を食べた。すべて残る隈なく、完全に食いつくしてしまったけれども蛸は死ななかった。彼が消えてしまつた後ですらも、尚且つ永遠にそこに生きていた。 

 

この散文詩を初めてみつけたのは高校2年、国語の授業中であった。先生から出された課題に取り組む時間であったが、先に終わっていたのでぱらぱらと教科書をめくっているときにふと目についた。一ページに収まる短い話だが、強く私の心をつかんだ。

誰にも気づかれずにいる蛸がそれでも生きながらえようと自分を食べ、すべて食べてしまってもなお「死ななかつた」というところが生に固執しているように感じたからだ。当時、未来への不安がだんだん大きくなっている時分であり簡単な道に逃げたい気持ちが強かった私には蛸が存在を忘れられてもなお自らを食べ生き続ける意思が特異に映ったのである。

 

二度目にこの散文詩をみつけたのは大学生に上がったときである。ヨルシカの「月に吠える」という歌を聞いて原作の詩との関連を調べるために手に入れた詩集の中に蛸はいた。周りに合わせ化粧を覚え、新たな仲間との関係を作ることに疲れかけているときである。過去の自分とのつながりを改めて感じることができてとてもわくわくしたことを覚えている。内容は確かに覚えていたがタイトルと作者の名前は憶えていなかったのだ。国語の教科書で読んだ時のインパクトとは別に、よもやこんなところで出会えるとはという驚きと懐かしい友に出会えたよろこびのようなものを感じた。

 

私は今、水槽の中の蛸を見つけることができたのではないかと考える。

詩というジャンルは授業で取り扱われ難い教材である。水槽の中にいるが死んだと思われ存在を忘れられている蛸と、教科書に集録されているが授業で取り扱われることのない詩。このふたつは似ている。人に見つからないがそこにいるのは確かであるという点において。

忘れないことは難しい。水槽や本のように蛸がいることがわかりやすくなる道具があれば別だが、実際はそれでも忘れられ私だって忘れていたけれど、覚えていたいという気持ちが強くなければ忘れてしまうのだと思う。私はこの蛸を忘れたくない。「蛸はここにいるんだ、ここに蛸がいるんだ」と誰かに伝えることができたらうれしいな。

 

2023/09/04 19:40