凪都。

なつの観察日記

5/23 昼

きみ、

かもめってのは、ほんとは

啞の鳥なんだってね。

 

 

けふ はじめてみみずといふ生きものが

めくらであることを知った

この悲しい出来事を知り

みみずを粗末にしてゐた僕自身を

恥ぢるやうな思ひであつた

 

人がもとめるしあわせなんて、ほんのわづかなもので、荷物になるほどのしあわせは、もはや、しあわせとは言へないのに。

5/13 朝

おばさん構文だとかおじさん構文を見て、書き言葉だからこそきもい文章を書くのは嫌だと改めて感じた。

文科的な背景をないがしろにして崩すのが嫌だと感じるのだろう。

まぁ書き言葉と話し言葉に少々違いが生まれてしまうことを許しているかと言われるとあんまり許してないだろうとも思う。

くろ

私はいま悲しいのだろうか。わからない。なにも手につかないというわけではないが、なにをしたいという訳でもない。ただ私の背景に、愛猫の死が加わっただけである。悲しまなければならないという訳でもないし、悲しくないという訳でもない。わからない。

 

くろを撫でながら、くろが死んでしまったらどうしようと思った。次に、どうもならないだろうと思った。18年一緒に暮らしてきたがくろのいない日常は、くろのいない日常として続いていくのだ。だからといってくろに死んで欲しいわけでもなく、ただ無必ずくる遠くない未来を先延ばしにしたい欲求も早く来て欲しい気持ちもなくその時が来るという事実を認識しようとした。死んで欲しくないと思った時、私ごときがそう思っていいのかと思った。

 

ごときがというのも烏滸がましいほど、時に私はくろに対して糞野郎であった。とくに最後の方などは可哀想だという感情からくろに接することが多くなっていた。

 

私は今日の日まで言葉に囚われる気分を憎く思った。言葉があるからこそ、純粋になりきれない自分がいると知っているからだ。

 

くろが死んだこと。それに対し、悲しみの薄いこと。大往生でお疲れ様だと思っていること。

どこかに吐き出したいけれどひとりで抱えるには少し重い思いであること。だからといって特定の誰かに知らせたり、慰めたりして欲しいわけではないこと。それらが色々ぐるぐるして、整理のつかない状況で、おくびにも出さずに平静を装うこと。簡単に装えてしまうことがいやだ。めんどくさいやつ。

 

くろはかわいい。はるもかわいい。かわいいを表現し誰かに伝えようとする自分が嫌いだ。

 

再三に、「私の感情は私のものであり、誰にも全体を把握できない」ということを頭に叩き入れたい。

5/12 朝

くろが死んだ

昨日の晩お風呂に入ろうと服を脱いだ時、猫の声がした。苦しそうではなく、妹がちょっといたずらで出したような声でくろは鳴いた。だからはじめは妹かと思って、「変ないたずらはやめろよ」と言ってやろうと思った。なんどか妹の名を呼び、返事があり否定をされた時、くろが鳴いていたのだと気がついた。

 

くろは床に寝ていた。寝ていたが、目は開いていた。私はそっと目を閉じてやろうとした。なんの気もなしにただ、目を閉じた方がよく眠れるのではないかと思ったのだ。触れてみて驚いた。体が硬いのだ。死んでいるかと思った。頭を撫でて、目を瞑らそうとした。くろは動いた。生きていた。元気かと言えば元気でなさそうだったが、呼吸はしていた。

 

私は妹を呼んだ。くろが危篤状態だと判断したからだ。できればひとりで看取りたかったのだが、それは私のわがままな理由であって、くろがそれを望んでいるかどうかは不明であるし、最期に誰かに触れられながらがいいと思ったのだ。妹とくろは同い年である。くろの方が幾分か遅くはあるけれど。18歳なのにかわりはない。

 

妹を呼びつけ、決して「もうすぐ死ぬだろうからなにか声掛けをしてあげなよ」とは言わずに、しばらくくろを撫でつけていた。

くろの体は相変わらず硬かったが、今すぐにでも逝ってしまうわけでもなさそうだったから私はお風呂に行った。お風呂からあがるまで妹に待っていて欲しかったが、彼女は明日が早く今日までの疲れもあるだろうからおやすみを言った。

 

風呂から上がり髪も顔もそのままでくろのもとへ向かった。まだ大丈夫だろうと思っていたけれど、あの体を思うとすぐにそばに居たかった。くろは生きていた。冷たい床の上であんまり自由にならないからだで横になっていたので、若い猫からふかふかの座布団を奪い、その上にくろを乗せた。くろの体は軽く、硬く、骨ばってゴツゴツしていた。

 

しばらくの間頭を撫でたり、顎をかいたり、体を撫でたりしながらくろの目を見ていた。なんど試してもくろは目を閉じなかった。そんなに目を開いていたら乾燥しちまうぞと思ったけれど、彼女は目を閉じることを忘れたかのように開いたままだった。

 

1時近くになり明日は遠くへドライブに行くこと、まだ髪を乾かしていないこと、顔の乾燥が酷くなってきたことを考えて寝ることにした。くろは生きていたが、いつ呼吸が止まってもおかしくはなかった。しかしまぁ明日の朝までは生きているだろうと少々楽観的に捉え、寝ることにした。

 

猫は人の見ていない時に死ぬという。個体差はあるだろうけれど、猫というのは死に際を見られるのが嫌なのかもしれないと思った。それなら明日私たちが家を開けている時の方が確率は高いだろうと思った。近々死ぬだろうけれど、まだ死なないだろうとたかを括ったのだ。布団に潜り込み乾燥と塗り薬のひりひりに耐えながら、しばらくの後、浅い眠りについた。

 

朝、6:00を回る少し前にきょうだいに起こされた。はっきりとした声で「くろが亡くなった」と。場違いにも、「こいつは死んだことを亡くなったと言える人間だったのか」と思った。使う言葉が丁寧な人は好きだし普段から自身も丁寧にしているため、いつもは少し荒いきょうだいがなにかしらの配慮を持って「亡くなった」という言葉を使ったことに驚いたのだ。

 

くろのもとへ向かうと、夜寝る前に「またね」と言った時と同じ格好でくろはいた。変わらず目は開いたままだった。触れてみると体が硬かった。人肌よりも少し低い温度のように感じたけれど、死んだとは思えなかった。昨日と変わらないようにみえた。でもいくら待ってもくろはなかなかったし、呼吸もしてなかった。私はくろを撫でつけた。30分くらい撫でていた。

 

棺代わりのダンボールへ入れた。前々日に母がもらった花束の花の頭だけちぎりたむけた。今日は雨だから、たぶん明日大きな穴を掘って埋めるのだろう。

5/4 朝

夏に近づき眠れない日が続いている。ただ、毎年この時期から眠れなくなっている気がする。そして、この時期からイライラすることが増えるんだ。去年も一昨年も、5月6月にかけてほんとうに些細なことでイライラすることが増える。暑くてじめじめする季節だからだと思う。とめどない性欲が抑えられたら今度は激しい情動に駆られるのだ。まったく、私という人間のなんと面倒なことか。絶えず、不安定でそれを隠すためにめをつぶって装うだなんて。くそやろうだな。反吐が出る。

 

最近は、眠れないことを受け入れるようになった。まず、夜眠ろうとするとなんだか怖くなる。怖いまま眠りにつくので大概が浅くなにかの物音で起きてしまう。起きてもすることがなくやるせない気持ちになる。なにかに突き動かされているような感じで、なにかをしなければならないのに、何も手につかない状態になるのだ。なんだか冬の朝を何倍も濃ゆくしたみたいなのが夏の夜なんだ。

 

ただ、はじまることに恐怖を示しているだけだなのろうか。

 

睡眠導入の音楽を流したり、他の人の声を聴いたり、明かりをつけて読書にふけたりだとかをする気力はなく、暗い部屋で虫の声や車の走る音や生き物の動いている音を聞いてなるたけ早く眠りに落ちますようにと願う日々だ。

 

眠れなくたってかまわないと思えるようになったのは強い。呼吸だけに集中する時間だと捉えらるようになってから、夜は相変わらずに怖いけれど、眠れないことに対する罪悪感は薄れた。

 

私という人間は、物事を悲観的に捉えるふしがあり、それらを表す言葉をたくさん知っているので落ちようと思えばいくらだって堕ちることができる。落下を遅くしているののもまた同じ言葉である。忘れないように。