凪都。

なつの観察日記

4/22 夜

落語を聞いている。

桂文治師匠の「源平盛衰記」を聞き、すごいと思った。源平の時代なのに、ペリー来航を思わせる描写があった。いくらアドリブが多い話と言っても、こんなに時代が飛ぶとは思わなかった。これは、前提に源平合戦のことを知っていてたからオマージュされたものに気が付くことができた。知識の勝利である。

 

そんなことはいいんだ。

用もないのに話しかけないでほしいというのは傲慢だろうか。言い訳をしたい。「人からされて嫌だと思ったことを人にしない」を徹底してきた結果、ため込んでいるものが抑えきれなくなってきた。同じことを二度も三度も聞かれるのは嫌だから、メモに残し、見ろと伝えた。聞き返されるのが嫌だから、一度得た人の情報はできるだけ記憶するようになった。記憶は、習慣化することで定着しやすいことを知った。得た情報をもとに話を聞くのだから、察する力がとてもついた。物事をうまくつなげられるようになったのだ。察する力は自分のことを考えるときにも役に立った。私はこういう面があるからこういうふうに捉えやすい。というように。ただ、伝える力は弱いように思う。一度伝えたときに「誰も聞いていやしないのだから」を学習してしまったせいだ。ほんとうに、聞いていないのだ。一度言われたことをできるだけ覚えるようにした結果、それを相手にも求めるようになった。元来無理な話であるが、求めてしまうのだ。してはいけないが、やめる方法がわからない。

できないことを求めているのではない、一度言ったことが理解できなかったのなら、理解できるまでなんどでも伝えよう。しかし、そうではないだろう。例えば君が電話をかけてきて私が出られなかったときのメッセージは、「何をしているか」聞くのではなく、「私はこういう理由をもって電話をかけました。こうして欲しいのですが可能ですか」と送るべきである。連絡をするのなら、用件だけを言え。私が何をしていようが私の勝手だし、今の心持で抽象的な質問をされたなら、不安定が大きくなってしまう。

まぁ上記に述べたことはすべて私の身勝手である。どうもいけない。その場に行けば不安定になると知っていたら、避けるのがあたりまえだろう。避けられているのはわかっているようだから、どうかそっとしておいてほしい。だめかなぁ。そっとしておいてを伝える気力もないのだ。身近にいるからこそ、今の私ができた環境であるからこそそれを嫌っているのだが、嫌うことはいけないことだと知っているのだが、嫌わない方法がわからないのだから、距離を取るしかないのだ。ほんとにごめん。、、、、、