月曜日。
4/14 夜
なんとなく不安である。漠然とした不安がある。一人であることを自覚しながら、一人でないことを切に願うそんな夜である。明日面接があるからだろうか、きっとそうだろう。10時から。自分の良いところの発表と信じた経験について述べなくてはならない。述べるという言い方であっているのだろうか。
のべる【述べる】
①説く。語る。②思うところを文章に記す。
文章に記すということは口頭で話すわけではないから、正しくないような気がする。ただ、説く、語るという点では正しいような気もする。言い換えてみよう。経験などについて、話さなくてはならない。うん、これでいいや。
漠然とした不安の正体について考えてみようと思う。
ひとつは、また過度な期待をしたことによるつらさにある。いや、今回の期待は過度ではなかった。淡い期待だった。期待といっていいかもわからないものだ。彼から追加で連絡が来るかもしれないこと、でもたぶん来ないだろうこと。無事なのだろうけれど、生活に入ることはできず一線を引かなければならないこと。来週会えることに関して楽しみであるけれど、あまり楽しみにしてはいけない気がすること。少し距離を置かなければならないということ。考えすぎるから。
ふたつは、気温のせいだ。春を越え、気温だけみるともう夏である。20度後半が連日続き、あっついたらありゃしない。運転席で浴びる直射日光は私の身と心を焦がした。あつくていらいらして、焦りも生まれた。生まれた感情はどうすることもできず、抱えなぐさめつつも大きくなっていくのでくそだなと思う。
みっつは、今週がどうなるかわからないことだ。月曜日、面接がありこれまでのこと聞かれる。火曜日、はじめて先生に会う。卒論の進捗は必ず聞かれるだろうし、就活もどうなっているか問われるだろう。打ち解けるか、打ち解けてもいいのか、今後どのように卒論を進めていけばいいのか、それらがわからないことが不安である。また、火曜日は授業が始まる。今期私はいい点を取りたい。頑張りたい。その他にも駐車場料金を払いに行かなければならないし、ガソリンも切れてきている。眉毛はないし、肌荒れはひどいし、卒論はどこから手を付けたらいいのかわからない。
やりたいこと、
本が読みたい。人と距離を置きたい。カラオケに行き歌いたい曲を歌いたい。暑さを感じたくない。ドライブで遠くまで行きたい。レンタカーして走り回りたい。お腹いっぱいと感じるまで食べたい。だれかに愛しているといいたい。誰かを愛してもいいのだと、愛していると言葉に出しても拒絶されないのだと。
4/14 朝
「テルーの唄」の元ネタを見つけた。萩原朔太郎の「こころ」だ。
こころ
こころをばなににたとへん
こころはあぢさゐの花
ももいろに咲く日はあれど
うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。
こころはまた夕闇の園生のふきあげ
音なき音のあゆむひびきに
こころはひとつによりて悲しめども
かなしめどもあるかひなしや
ああこのこころをばなににたとへん。
こころは二人の旅びと
されど道づれのたえて物言ふことなければ
わがこころはいつもかくさびしきなり。
テルーの唄では、「心を何に例えよう」の直後に「花のようなこの心」であったり「鷹のようなこの心」であったりもうすでに例えているのがいつも不思議だった。直喩、隠喩、など表現方法は忘れてしまったが例えであることは間違いなく、だとすればテルーは心に何を求めているのか、何に例えたいのか、疑問である。
朔太郎の詩では、「こころをばなににたとへん。」と言っている。詳しい文法はさておき、読んだ時の感覚でこの一文を現代語訳すると、「心をなにに例えようか?」になる。軽く答えが出ている状態で、「さぁどうしようか?」というニュアンスが含まれているように思う。「をば」の影響だと思う。
そうか、朔太郎の詩はすぐに答えが出ているんだ。疑問→答えの流れで。
「心をなににたとえようか?心は紫陽花の花」
テルーの唄は疑問に対して答えを述べているわけではなく、答えがあるものに対して疑問を提示しているんだ。
「心をなににたとえよう。花のようなこの心」
順番が違うことによる違和感だったんだ。うまく言語化できてないけれど、納得した。