凪都。

なつの観察日記

4/14 朝

「テルーの唄」の元ネタを見つけた。萩原朔太郎の「こころ」だ。

 

こころ

こころをばなににたとへん
こころはあぢさゐの花
ももいろに咲く日はあれど
うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。

こころはまた夕闇の園生のふきあげ
音なき音のあゆむひびきに
こころはひとつによりて悲しめども
かなしめどもあるかひなしや
ああこのこころをばなににたとへん。

こころは二人の旅びと
されど道づれのたえて物言ふことなければ
わがこころはいつもかくさびしきなり。

 

テルーの唄では、「心を何に例えよう」の直後に「花のようなこの心」であったり「鷹のようなこの心」であったりもうすでに例えているのがいつも不思議だった。直喩、隠喩、など表現方法は忘れてしまったが例えであることは間違いなく、だとすればテルーは心に何を求めているのか、何に例えたいのか、疑問である。

 

朔太郎の詩では、「こころをばなににたとへん。」と言っている。詳しい文法はさておき、読んだ時の感覚でこの一文を現代語訳すると、「心をなにに例えようか?」になる。軽く答えが出ている状態で、「さぁどうしようか?」というニュアンスが含まれているように思う。「をば」の影響だと思う。

 

そうか、朔太郎の詩はすぐに答えが出ているんだ。疑問→答えの流れで。

「心をなににたとえようか?心は紫陽花の花」

テルーの唄は疑問に対して答えを述べているわけではなく、答えがあるものに対して疑問を提示しているんだ。

「心をなににたとえよう。花のようなこの心」

 

順番が違うことによる違和感だったんだ。うまく言語化できてないけれど、納得した。