つくしがでたよ
もう春だ
青いお空が光ってる
おーいおーい
呼んでんでいる
つくしがでたよ
もう春だ
黒い畑が光ってる
わーいわーい
呼んでいる
祖母がつくしの冠部分を剥いでいて幼少期に歌ったこの曲を思い出した。
はかまというらしい。
つくしは土筆と書いたり付く子と書いたりするらしい。
落語を聞き始めた。
もともと好きだったんだよなぁ。
はじめて聞き始めようと思ったのは志ん朝師匠の落語で、しかも声だけだった。
落語のきっかけは高校2年生の芸術鑑賞会が落語だったからだと思う。
パソコンの予測変換でさっと出てくるまで毎日YouTubeで志ん朝と調べていた。高校3年生の受験期に碌に勉強もしなかったけれど、机に向かっているときはずっと聞いていた。落語を聞きながら数学を解き、古典を読み、登場人物の心情を考えた。
まず声が好きだ。特に江戸時代の女性特有のあの感じ。男性なのに色っぽい声なのだ。女性の雰囲気が声からわかるというか、「あんた...よしておくれよ」みたいな!!!
好きなのだ。
平成ぽんぽこの語り手が志ん朝師匠だと知った時、腑に落ちた。住処を守るため百鬼夜行までした狸たちの苦労が人間の発展のためには無下になる悲しみを、志ん朝師匠の声でより感じてしまった。
志ん朝師匠は私が生まれる前に亡くなっている。
最近鳥山先生が志ん朝師匠のところへ行ってしまった。
私の大好きな人がそれを知り頑張れないと言っていた。
人が亡くなるのはいやだ。そんなニュース知りたくないと常々思っている。
この世にいない人を好きになってしまった私とあの世に行ってしまった人が好きな私。どちらが楽だなんて言いたくないし、このことに頭を悩ませるのはただただ堕ちていくだけだからしないほうがいい。これまで時間を割いて人と自分の死について考えてきて答えなどでなかったのだからもうほどほどにしないといけない。
人は必ず死ぬけれど、彼らの考えや体験はどこかで誰かに受け継がれている。
拭おうにも拭えないのだ。
そういった経験体験などを思い出し、その人を思い出すことが今はとてもつらいのだけれど、このつらい気持ちを受け入れてどうにか私の経験体験に紐づけて、私と関わった人の記憶のどこかに私が居たこと私の好きだという感情の基になった彼らのことを、忘れないでほしい。あわよくば好きになってほしい。私のことも彼らのことも
フイルム フアン なんでございますね なにぃ?